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いつかは来ない!断捨離で服の数を決め限界へ挑む

こんにちは(⊹^◡^)ノo゚。

断捨離の本を何冊読んでもなかなか実践に結びつかない。

そんな状況かもしれませんね。

私はある映画の中で、主人公のクローゼットに同じシャツが何枚も同じ色で揃っていたシーンが未だに忘れられません。

思えば不思議です。

好きな服の形も色も質感も決まっているのだから、そればかりを毎日なぜ着ていてはいけないのだろうかと。

 

もちろん、数秒と待たず答えは出てきます。

自分のためじゃなく、人間関係という社会で私たちが生きているからであり、その「世間」というどこにあるのかわからない「視線」を必要以上に意識して生きているから。

それは、ある程度変化を楽しみたいという自分自身の願望も多少はありますが、「社会の目」や「世間の目」がなければ、大好きな服だけがクローゼットに必要枚数ある生活というのは本当に理想です。

 

 

なぜ断捨離がうまくいかないのか

木を見て森を見ず、という言葉があります。

そう、この場合断捨離が「木」で「森」は生き方、ライフワークといっていいかもしれません。

生き方が決まらないのに、何かを取捨選択することはできないのです。

生き方が定まっていれば、自分に何が必要で何が不要かは一目瞭然。

逆に、生き方が定まっていなければ何が必要で何が不要かを瞬時に判断することなど不可能ということです。

 

 

断捨離ができない根底に“漠然とした不安”

捨てられない、処分できない、その心は「不安」だから。

 

何が不安なのか。

ただただ、漠然とした不安があるといった感じではないでしょうか。

それは未来の自分であったり、家族の不幸であったり、総合的な環境の変化であったり、病気への不安であったり、どれもこれも今持っているものが変貌していくのではないかという、漠たるもの。

 

確かに不安を抱くなといっても無理かもしれません。

不安はとても個人的な感情であるし、複雑多岐なものだから。

けれども、こうも言えます。

世の中の人で不安を抱かない人はおそらくいないだろうと。

断捨離に踏み切れない、どうしても踏ん切りがつかないその深層心理には所有していたものに自分自身の人生を投影しすぎている、ということが言えるかもしれません。

 

 

あなたの存在はモノじゃなく“魂”そのもの

先日、私は家族の一人を失いました。
まだまだ若く未来もあり、多くの才能のある人物でした。

 

病に倒れ、自分の命があまり長くないかもしれないと悟ったとき、彼女が真っ先にしたことは断捨離です。

きびしい体調のなか、一心不乱に身辺整理を始めた彼女を突き動かし、開眼させたものは何か。

それは“魂への回帰”です。

魂、それだけが自分の持ち物であり、必要なものであり、失いたくない唯一無二のものであると悟ったといっていいでしょう。

 

本当に生きていくのに必要なものはなんなのか。

嫌が応にも見せ付けられる瞬間でした。

 

そして、断捨離を行うということは自分の過去への別れの挨拶であると同時に、残された限られたあまりに貴重な人生の時間へ対する覚悟なのだとも。

 

 

そして、クローゼットには心地いい服だけが

下手なブティックより洋服やカバン、靴が多かった彼女の持ち物は、必要とする貧しい人々のいる国へ次々と寄付されました。

そして、クローゼットに残ったのは誰のためでもない、自分が本当に心地よく着ることのできる洋服だけが数枚。

 


未来への希望をつなぐための、まだ袖の通されない次の季節に着たいと思っている新しい洋服が、ことに
印象的でした。

いつか着るだろうと、それまでなかなか処分しきれずにいた多くの衣類たちは、残された時間が見えてきたとき、ただの紙吹雪のように消えて無くなったものです。

 

生きるに必要なもの、それは明日への希望と必要最小限の衣食住。

増えすぎた服の処分に躊躇(ちゅうちょ)するほど人生は長くないのです。

そのことをどれだけ自分自身のこととして実感できるか。

 

断捨離への限界を感じたときに、是非、思い起こして下さい。

人生に必要なものは、そう多くないのだということに。